Dai Nippon Airways(大日本航空) の
東京-バンコク定期便の英文ポスター

タテ109cmヨコ76cm 美品で画鋲痕なし ポスター拡大のpdf
ポスター製作は1940年の可能性が高いだろう
ポスターの左下 の記入によって光村印刷の製作であることがわかる、
右下 の記入の意味を光村印刷にお尋ねしたが、注文者(大日本航空)が決めたはずで意味はわからないとのこと
大日本航空は、1938年11月30日に設立された国策航空会社で、日本の民間航空路線を一手に担当することになった。主要な前身会社は日本航空輸送株式会社であった。別に、満州航空があり、また約1年後に中華航空が設立された。3社とも日本のための国策航空会社であった。3社とも、形式的には民間航空会社であるが、実質は、日本軍と密接な関係にあった。1941年12月の英米との開戦とともに、3社の航空機運航は日本軍の航空輸送体制に組み込まれた。
左のポスター上に描かれた地図の路線で、ハノイ経由バンコク行きであることが重要である。では、この路線はいつ開設されたのか。答えは、
ハノイを経由しない東京-バンコク定期便の第1便は、1940年6月10日東京出発12日バンコク着
ハノイを経由の東京-バンコク定期便の第1便は、1940年7月15日東京出発17日バンコク着 であった。
(補) 東京-バンコク定期便の遠藤公嗣所有ポスターと日本航空所有ポスターの比較
以下は長文になるが、大日本航空の日タイ定期航空路線について、関連事項も含めて、概説する。最初に、国際情勢を概説する。これが、バンコク定期便の運航に、実は相当に影響している。国際情勢と照らして、日タイ定期航空路線を理解すべきである。
もっとも信頼できる情報源となったのは、当時の朝日新聞の縮刷デジタル版であった。記事見出しのキーワード検索のみ可能だったので、「仏印」「日タイ」「松風号」などをキーワードに検索した。見出しのキーワード検索のみなので、記事の見落としがあるかもしれない。毎日新聞(当時は東京日日新聞)と読売新聞の縮刷デジタル版も検索してみたが、朝日新聞が圧倒的に記事が多かった。下記で依拠する朝日新聞記事は、11/23 東京夕刊 のように出典を記述する。そのほかの重要な参考文献は『日本民間航空史話』『航空輸送の歩み』『日本の航空史 上』『J-BIRD』『空の旅』であり、これらの書誌情報はこの頁の最後に掲示する。
前提としての国際情勢
1937年8月から日中全面戦争になり、日本軍は中国の上海から長江にそって南京そして漢口(現在の武漢の中心部)を占領した。1937年11月に中国政府は首都を南京から四川省重慶に移した。日本の期待に反して、重慶の中国政府(主席 蒋介石)は日本軍との戦闘を継続し、長期の戦争となった。中国政府が戦争を継続できた理由の一つは、他の多くの国から支援を受けていたことであり、「援蒋ルート」がいくつかあった。その封鎖を1939.40年頃の日本軍は課題としていた。
1939年
9月1日、独はポーランドに侵入した。同日、英と仏は独に宣戦布告したが、両者の間に本格的戦闘はなく「奇妙な戦争」であった。第二次世界大戦のはじまりである。
1940年
5月10日、独はオランダ・ベルギー・ルクセンブルグに侵入した。英仏軍は、独軍と本格的に戦うことになったが、戦略を誤って敗北し、仏のダンケルクで英仏軍40万人は独軍に包囲された。
5月26日から6月4日の間に、英仏軍36万人はダンケルクから英に撤退した。しかし約3万人が独軍の捕虜となり、大量の武器や物資が放棄され、英軍は武器不足に陥った。
まさにこの期間、英外相は対独和平交渉を提案し、しかし首相チャーチルは対独強硬論であって、閣内は意見がわれた。しかし9回の閣議の末、交渉案は無くなった。
6月10日、伊は英と仏に宣戦布告 「勝ち馬に乗る」「漁夫の利を得る」行為というべきか。
6月14日、独は仏のパリを無血占領。 6月17日、仏のペタンが首相になり、独に休戦申し入れ。
6月18日、ロンドン亡命の仏ドゴール将軍による対独抵抗呼びかけ放送 彼の支持グループは、のちに自由フランス軍の中核となる。
6月19日、日本は仏政府にたいして、仏印(フランス領インドシナ植民地 現在のベトナム、ラオス、カンボジア)における「援蒋ルート」閉鎖と軍事顧問団(西原機関)の受け入れを要求し、承認させる。これも「勝ち馬に乗る」「漁夫の利を得る」行為というべきか。
6月22日、独仏休戦協定に調印、6月25日休戦協定発効。
7月1日、 仏は首都をヴィシーに移す 独と協調(に従属?)の「ヴィシー政府」成立。 多くのフランス植民地政府はヴィシー政府に従うが、これを是としない軍人官僚も少なくなかった。仏印も同様に、植民地政府(総統府)はヴィシー政府に従うが、従いたくない軍人官僚もいた。
7月10日、 「バトルオブブリテン」(独空軍の英国空襲と英空軍の迎撃による空中戦)はじまる。 7月16日、独ヒットラーは英本国上陸作戦の立案を命令。
9月19日、独ヒットラーは英本国上陸作戦準備の中止を命令。 「バトルオブブリテン」は独空軍の損害が大きく、事実上の終了。
9月22-26日 日本軍は武力を持って北部仏印進駐。これを是としないドンダン要塞フランス軍は日本軍に激しく抵抗したが、要塞司令官ほか多数が戦死し、要塞は制圧された。北部仏印進駐は、日独伊三国同盟調印を日本政府内で決定した後のことになる。
9月27日 日独伊三国同盟調印 日伊とも、独の「勝ち馬に乗る」戦略というべきか。
10月16日 米国 くず鉄の日本への輸出禁止という経済制裁を発表 日独伊三国同盟を非難。
11月23日 タイ仏印国境紛争 起こる。 タイ軍と仏印軍との間で、地上戦はもちろん、海戦(タイ海軍旗艦の海防戦艦トンブリ2000トンが損傷擱座)も、両軍による空爆と空中戦も複数回あった。
1941年
1月28日 タイ仏印国境紛争で両軍が停戦 3月11日 日本による調停成立 5月9日 平和条約が東京で調印
7月28日 日本軍は南部仏印進駐
8月1日 米国 石油の「すべての侵略国(日本が主眼目)」への輸出禁止という経済制裁を発表 南部仏印進駐を非難。 南部仏印進駐が英米との戦争を不可避とした、というのが通説である。
英とオランダ(事実上は蘭印 オランダ領インドシナ植民地 現在のインドネシア 大油田がある)も石油禁輸に同調
その後の日本と米英蘭との交渉難航
12月8日 日本は英米に宣戦布告 英米も日本に宣戦布告
12月11日 独伊は米に宣戦布告 米も独伊に宣戦布告 米の参戦で、第二次世界大戦となる。
前史となる試験飛行3回(または4回)
第1回目は、三菱双発輸送機の大和号(登録記号J-BEOC)使用。機長松井勝吾。1939年11月24日東京羽田出発でハノイ経由で11月18日バンコク到着 12月11日バンコク出発でハノイ経由で12月16日東京羽田到着
1939年11月24日出発予定だった(11/23 東京夕刊 機体写真、11/24 東京朝刊、11/25 東京朝刊)ところ、悪天候で延期となり(11/25 東京夕刊 機内写真)、11月25日07:11に羽田を離陸した(11/26 東京夕刊 出発写真)。同日15:13台北に到着した(11/26 東京夕刊 到着写真)。11月27日09:07に台北を離陸し、同日15:03ハノイに到着した(11/27 東京朝刊)。11月28日09:13にハノイを離陸し、同日11:18にバンコクに到着した(11/28 東京夕刊)。同機には、日泰航空協定調印式に出席する航空局と外務省の官吏が搭乗していた。また日タイ定期航空は1940年2月開始予定だった(11/28 東京朝刊)。調印は11月30日であり、協定文は『航空輸送の歩み』153-154頁にある。大和号(登録記号J-BEOC)は12月11日08:05にバンコクをハノイに向けて離陸(12/12 東京夕刊)。12月14日10:23にハノイを広東に向けて離陸(12/15 東京夕刊)。12月15日09:16に広東を離陸し、台北に12:44に到着した(12/16 東京夕刊)。12月16日に羽田に到着(12/17 東京朝刊 松井機長降機写真)。
三菱双発輸送機とは、海軍96式陸上攻撃機の民間機型のことである。大日本航空には16機が所属していた(『J-BIRD』430頁)。乗客定員4-8名である。三菱双発輸送機で有名なのは、ニッポン号(登録記号J-BACI)である。毎日新聞社の企画で、1939年8月26日に羽田飛行場を出発し、世界一周の後、10月20日に羽田飛行場に帰着した。
1940年1月8日に、三菱双発輸送機の龍風号(登録記号J-BEOE)が福岡雁ノ巣飛行場に到着、1月9日に台北へ飛行予定、日タイ初飛行に向けての試験飛行の予定(1/9 東京朝刊 龍風号写真)。
1940年2月19日の航空局の発表によると、仏印上空通過の許可を得ていたが、昨年12月にフランスが許可の延期を申し入れてきたので、外務省をつうじて抗議している。広東から南シナ海を迂回してバンコクに到着する試験飛行を、龍風号によって2月26日東京出発で決行する予定。このコースでの広東バンコク間は2875キロで10時間余の飛行となる(2/20 東京朝刊 龍風号写真とコースの地図)。
第2回目(南シナ海迂回の第1回目)は、三菱双発輸送機の龍風号(登録記号J-BEOE)使用。機長松井勝吾。1940年2月26日東京羽田出発で、南シナ海迂回で、28日バンコク到着 1日バンコク発4日台北着
1940年2月26日朝06:30羽田発、26日 東京-福岡-台北 27日 台北-広東 28日 広東-バンコク 予定(2/25 東京朝刊 2/26 東京朝刊)。龍風号は27日11:17広東到着、13:17広東出発して海口へ(2/28 東京朝刊夕刊)。龍風号は28日08:00(空港所在地記名無し)出発 南シナ海迂回で14:50にバンコク到着、来る3月9日と19日にも試験飛行予定で、4月から正式運航予定(2/29 東京朝刊夕刊)。
3月1日08:20バンコク出発 南シナ海迂回で17:58広東着(3/2 東京朝刊 東京夕刊)。4日13:35広東出発 16:17台北着 第3回目(南シナ海迂回の第2回目)に搭乗予定の機長以下は4日福岡発で台北着(3/5 東京朝刊)。
第3回目(南シナ海迂回の第2回目)は、三菱双発輸送機の龍風号(登録記号J-BEOE)使用。機長森田勝人。1940年3月9日台北出発で、南シナ海迂回。 以下記事無し。
1940年3月9日10:47台北発、同日14:20広東着(3/10 東京朝刊夕刊)。 以下記事無し。
第4回目(南シナ海迂回の第3回目)は、三菱双発輸送機の龍風号(登録記号J-BEOE)使用。機長小川。 往路の記事無し。 復路1940年3月24日07:49台北発、福岡経由 東京羽田16:40着。
1940年3月19日 ?発、 3月24日07:49台北発、福岡経由 東京羽田16:40着(3/25 東京朝刊 羽田での搭乗員集合写真)。同記事に「同機は、去月二十八日バンコック着の第1回テストに続いて去る九日、十九日と三回に亙りそれぞれ松井、森田、小川各機長以下の搭乗員によって…」の文がある。4月上旬に定期便第1便の予定の記述もある。
ハノイを経由しない東京-バンコク定期便 第1便は6月10日東京羽田出発
実際の第1便は、1940年6月10日出発予定。三菱双発輸送機の松風号(登録記号J-BEOG)使用。機長中尾純利、通信士清都誠一の名もある。毎週月曜日に羽田出発予定。当分の間、一般旅客は扱わないが、東京-バンコクの料金は片道740円の予定。松風号の他、大和号、龍風号、の3機を使用の予定(6/8 東京夕刊 松風号写真)。第1便は10日06:30出発予定、乗務員5名のほか、日航課長、東日、読売、朝日の記者が搭乗、12日17:30ころバンコク着の予定(6/10 東京朝刊 朝日記者顔写真)。10日06:30羽田出発、09:52福岡着、10:34福岡発 15:25淡水上空 台北は雨と濃霧のため着陸せず、16:35嘉義着(6/11 東京朝刊夕刊 羽田での出発見送り写真)。11日07:47嘉義を出発、08:50台北着 郵便物積込 10:17台北出発 15:00広東着(6/12 東京朝刊夕刊)。12日早朝広東発 16:40バンコク着(6/13 東京朝刊夕刊)。バンコク・ドンムアン飛行場着の時の写真(6/16 東京朝刊 写真は台北電送)。
東京への上り第1便 松風号 6月15日10:50広東着 11:30広東発 14:27台北着(6/16 東京夕刊)。16日15:40東京羽田着 第2便は17日06:30羽田出発予定 大和号 機長松井正吾(6/17 東京朝刊)。
※ 機長の中尾純利は、1939年にニッポン号が世界一周したときのニッポン号機長であった。第二次世界大戦後、羽田飛行場長を務めた。
※ 羽田での出発見送り写真(6/11 東京夕刊)の同一ネガでの写真が、『日本の航空史 上』199頁にある。すこし広い画角で、かなり鮮明である。
第2便の大和号は悪天のため出発延期 18日出発予定(6/18 東京夕刊)。18日06:30羽田出発 20日バンコク着の予定(6/19 東京夕刊)。
ハノイ経由実現の可能性(6/24 東京朝刊)。
ハノイ着陸承認、7月15日発の定期第6便から実現 酸素吸入器を備え付け3000mの安南山脈を越える予定(7/7 東京夕刊)。
松風号が初の旅客をのせ7月8日に東京を出発(7/9 東京夕刊)。
ハノイを経由の東京-バンコク定期便 第1便は7月15日東京羽田出発
龍風号(登録記号J-BEOE)が7月15日06:30に羽田を出発 ダイヤ変更 毎週木に羽田発 バンコク3泊 毎週火バンコク発 となる 次便は7月25日羽田発予定(7/16 東京夕刊)。16日15:20ハノイ着 17日ハノイ発(7/18 東京夕刊)。
「ハノイに颯爽!松風号 去る16日午後ハノイ経由日泰定期航空一番機として ハノイ郊外ヂアラム飛行場に着陸した松風号=中野特派員撮影=台北電送」(7/19 東京朝刊 登録記号がJ-BEOGまたはJ-BEOCである機体の写真)。
※ この記事文は誤文または誤解を招く文である。 この機体は、7月8日に東京を出発した松風号(登録記号J-BEOG)であろう。撮影された松風号は、おそらくバンコク10日着で、バンコクから東京への復路に、ハノイに16日に着陸した機体であろう。1番機とは、往路(下り)の1番機でなく、復路(のぼり)の1番機ということになる。16日からハノイ着陸の許可が出たので、この日にあわせて復路便もハノイ着陸ということかもしれない。なお、次に述べる事情から、大和号(登録記号J-BEOC)ではない。
大和号(登録記号J-BEOC)は下り2番機(機長 小川寬爾)として7月25日06:29に羽田を出発し、10:15福岡雁ノ巣飛行場へ着陸しようとしたが、失敗して、飛行場西方400mに海没した。着陸し滑走中に、後方から海軍練習機が追走してきたので、エンジンをかけて再上昇を試みたが、風にあおられ失速したため、である。乗員乗客とも軽傷または無傷(7/26 東京夕刊 水没した機体の全景写真)。25日14:30に機体を引き上げたが、使用不能(7/26 東京朝刊)。
松風号のハノイ不時着(8月1日)と復帰
松風号(登録記号J-BEOG)は、8月1日10:00にハノイのジアラム飛行場を台北に向け離陸したが、両エンジンとも突如停止し、飛行場から9kmの水田に不時着した。機長中尾の談話あり(8/2 東京朝刊)。
※ 日程から考えて、使用不能となった大和号の代替機としてバンコクに飛行した便の、復路のことである。
松風号機長中尾(8月7日17:59に台北に着陸した龍風号に乗っていた)の台北での談話はつぎのとおり。不時着後ガソリンに混入された水を抜くと、エンジンは順調だった、ハノイの宿舎に戻ってから、「土民」の通報があり、松風号のカバーを誰かがはずそうしているとのこと、駆けつけると部落の門を閉ざれて中に入れず一夜待ち明かした、これは証拠隠滅を図る「敵性行為」である(8/8 東京朝刊)。8日午後、鈴木ハノイ総領事から外務省宛に「松風号の事故発生当時にはフランス兵が警備に当たっていたが、しばらく警備を離れていた間に何者かが機体に触れた痕跡あり、今後は特に監視員を置いて定期便の発着前後を厳重に警戒する」との報告があった(8/9 東京朝刊)。日航側の調べでは約10リットルの水が出てきたが、日仏連合の調査委員会では、フランス側の目撃者は1-2リットルと証言し、故意か偶然かの証拠がない、機体は飛行場まで運搬して手入れし台北まで空輸することになった。フランス外人部隊の軍曹(アフリカ人)が4日夜松前号の乗客出入り口の鋼を切って侵入した事件は、同軍曹は直ちに免官のうえ厳罰に処せられている(8/14 東京朝刊)。10月20日頃に機長中尾の操縦で不時着現場から飛行場まで空輸、その後、手入れして帰国予定(10/13 東京朝刊 不時着した機体の写真)。「去月30日」中尾機長によりジアラム飛行場に空輸、元旦早朝ハノイを出発、台北に1泊、福岡経由で2日16:35羽田着 松風号は点検のうえで日タイ定期便に就航の予定(1941年1/4 東京朝刊)。
『航空輸送の歩み』498-502頁の清都誠一「仏印進駐の嵐に消された松風号事件の真相」は、松風号のハノイ不時着を詳述している。清都誠一は、不時着した同機に通信士として搭乗していた。清都誠一によると、この不時着は、エールフランス機が撃墜された事件の数日後で、その報復の可能性がある。清都誠一によると「□(氵に囲)州島事件とは、この事故の数日前に、エールフランスのハノイ香港便が、雷州半島の西の□州島上空で日本海軍守備隊によって撃墜された事件」である。□州島 とは、現代の簡体字で围洲島のことであろう。この撃墜事件の日本語での報道や情報を私は発見できない。しかし、確かに起こっている。1940年7月7日に、トンキン湾上空で、エールフランス旅客機ドボアチンDewoitine
D.338が日本の戦闘機に撃墜され、乗客なしで乗員4名が死亡している(Dewoitine D.338 | Bureau of Aircraft Accidents Archives (baaa-acro.com) 2022年1月23日閲覧)。この当時、日本陸軍は雷州半島に達していないので、日本の戦闘機による撃墜である。7月7日8日と日本陸軍が中国と仏印の国境付近の「援蒋ルート」を大規模爆撃している(7/8 7/9 東京朝刊)ので、その際のことと思われる。軍用機による外国民間機の撃墜は大事件であり、フランス政府から日本政府へ抗議などがあったはずで、すでに公開されている外交文書などを探索すれば、詳細がわかるかもしれない。また、この事件が日本側で丸秘扱いになっていた可能性は十分にあり、しかし清都誠一ら関係者は、当時、丸秘情報として知らされていた可能性がある。
※ 清都誠一は『日本民間航空史話』237-245頁に、1938年1-3月のこととして、国際航空(満州航空小会社)購入のHe-116旅客機(エンジン4発)によって、独から伊領リビアのサハラ砂漠へ飛行し、周回飛行競技会に参加した顛末を記している。清都誠一は通信士兼航法担当であった。エンジン2発のプロペラ脱落で競技を途中棄権した。エンジン2発とプロペラを独からサハラ砂漠の中の飛行場に届けたのは中尾純利であって、修理後の独への帰還飛行に中尾は同乗した。これを記した1966年に、清都誠一は電気通信大学助教授であって、その顔写真がある。
ハノイ発サイゴン経由バンコク定期便の新設
第1便は、三菱21型の赤城号(登録記号J-BEOZ)によって、1940年12月5日に、08:00ハノイ発 ツーラン着10:10同発10:40 サイゴン着12:50 同発13:35 バンコク着16:15 で運航の予定。週1便の予定。第2便以降は、新鋭三菱MC20型を使用の予定(1940年12/5 東京朝刊 三菱21型の写真と航空路図)。12月5日より仏印総督府の許可ですでに4回就航しているが、仏本国より不許可指示があって、12月24日のハノイ発は飛行不能となった。不許可の理由は、タイ仏印国境紛争というが「政策的意図」がある(1940年12/27 東京朝刊)。サイゴンは、南北ベトナムが統一された後の1976年にホーチミン市に改名された。
※ 三菱21型とは、陸軍97式重爆撃機を改装した輸送機で、乗客8名で窓がない。大日本航空には18機が所属していた(『J-BIRD』430頁)。三菱21型はMC-21とも呼ばれた。三菱MC20型とは、陸軍97式重爆撃機の胴体を再設計した100式輸送機の民間型で、乗客11名で窓がある。大日本航空には62機が所属していた(『J-BIRD』429-430頁)。
1941年の路線網
時刻表(『航空輸送の歩み』155頁)は、本文記述によると、1941年4月のものと思われる。1941年6月からの時刻表写真版(『空の旅』155頁)と非常によく似ている。これによると、ハノイ-バンコク間は週4往復(直行は週3便 サイゴン経由は週1便)だが、東京からバンコクまで2泊(台北と広東)3日で到着するには、毎週日曜日東京発しか無いようである。
1941年7月以降で、路線の拡充将来計画を示唆する新聞記事が2件ある。
(1)川西式4発飛行艇によって、横浜発-サイゴン着を、1泊(台湾の淡水)のみで飛行する報道が2回あった。2回ともタイ仏印国境策定委員会の委員や職員を東京からサイゴン-バンコクに送る特別便であった。2回の記事とも女性の扱いに時代を感じる。
1回目:白雲号(J-BGOD) 1941年7月19日05:00おそらく横浜発 「なお紅一点としてタイピスト木村荘八画伯令嬢彩子(21)さんも一行に加わり…」(1941年7/20 東京夕刊 木村彩子の機内写真)。
バンコク滞在中であった一行は白雲号で27日12:30サイゴンに戻り直ちに宿舎へ(1941年7/28 東京朝刊)。
2回目:巻雲号(J-BGOE) 1941年8月3日04:50横浜発 「一行にはタイピストとして奥村英子さん(22)石井佳子さん(22)の紅二点も加わり…」14:22 淡水着 (1941年8/4 東京朝刊 奥村と石井の機内写真)。
巻雲号は4日16:45スコールをついてサイゴン安着(1941年8/5 東京朝刊)。
※ 巻雲号(J-BGOE)は1945年8月の敗戦まで生き残り、9月9日以降に、緑十字をつけて、横浜から台湾まで紙幣を空輸している(『J-BIRD』217頁)。川西式4発飛行艇とは、海軍97式大型飛行艇の民間型である。大日本航空には26機が所属していた(『J-BIRD』429頁)。この横浜-サイゴン路線は、その後も戦争中を通して維持されていた可能性がある。つぎの事情がそれを示唆する。磯波号(J-BGOA
)は、1944年12月28日にサイゴンから台湾東港に向けて出発後行方不明、撃墜されたと認定(『J-BIRD』216頁)。
(2)羽黒号(MC20 J-BGOZ)は、乗客9名で、9月2日08:12にサイゴンを離陸し、ツーラン、ハノイ、広東を経由して、20:03に台湾に到着 10時間28分で新記録(1941年9/3 東京朝刊)
東南アジアにおける他国の国際路線の動向(新聞記事から)
このポスターが英文なのは、バンコクに飛来するヨーロッパ客へ乗り継ぎを宣伝するためと思う。では、この当時の、東南アジアにおける国際路線の状況はどうなのか。この正確な解明は手間がかかるはずだが、さいわい、当時の新聞記事に一部のわかる記事が時折掲載されている。これらを示す。なおポスター上の機影は、三菱21型にも三菱MC20型にも三菱双発輸送機にも似ていない。
1940年2/23 東京朝刊
3.4月頃にローマ-バンコク間定期便を、サヴォイア・マルケッチSM73型旅客機によって開設するとのこと。 ※ これは実現しなかった。
1940年6/13 東京朝刊
バンコクへ現在飛来しているのは
英国 インペリアル・エアウェイズ かつて週3往復で ロンドン-バンコク と バンコク-香港 運航であったが、最近は週1回でサザンプトン起点である ※ 「サザンプトン起点」から飛行艇であることがわかる
オランダ KLM 週3往復が、2往復、1往復と減り、本国が独軍に落ちた結果一時ナポリ起点となったが、現在では、政府移転先のロンドンから飛んできている
仏 エールフランス 週2往復が、1往復となっている。
こういう状況に日本が乗り込んできたから「鼻が高い」
1940年7/31 東京朝刊
ハノイで朝日新聞特派員が中華航空公司(CNAC)の「重慶行ダグラス機を操縦する米国生まれの若い支那人パイロット(特に名を秘す)」にインタビューした長文記事 非常に貴重な情報
現在、CNACの重慶路線は、重慶-香港の直通 と 重慶-昆明経由-ハノイ の2線である。ハノイ発は週2回で、水曜日と土曜日の08:00ハノイ・ジアラム飛行場発-10:30昆明着 11:00昆明発-13:40重慶 であり、重慶発も週2回で、火曜日と金曜日の10:00重慶発-12:40昆明着 13:30昆明発-16:00ハノイ・ジアラム飛行場着 でハノイに1泊して香港に帰る。料金はハノイ重慶間でかつて「300支那ドル」だったが最近「380支那ドル」に値上げされた。仏のエールフランスはサイゴン・ハノイ線を重慶まで延長する計画だったが、仏本国没落で中止となった。英のインペリアル・エアウェイズはハノイ重慶線を中止しているので、現在はCNACのみが路線を持つ。機材は14人乗りのDC-2で、全部で14機が重慶への2線を担当する。パイロットは米国免許を持つ数十人が担当する(※ 前後の文脈から全員が中国人か)。日本の空襲をおそれて全員が香港住である。他に若干の米国人操縦士がいる。この5月まではハノイ発便はいつも満席だったが、「援蒋ルート」閉鎖と軍事顧問団派遣を日本が行って(6月19日)から、乗客がめっきり減り、2-3人の客の時もある。
※ CNACは資本55%中国政府(重慶)と45%米国民間(1933年からパンアメリカン航空)の合弁企業。第二次世界大戦中から戦後にかけて中国政府(重慶)の管理下に運航していたが、新中国成立後の1949年11月に、操縦士は主要機材を操縦して香港から北京に飛行し、新中国政府側に寝返った。整備士や家族も陸路で従った。こういう「寝返り」は当時の軍人・官吏・資本家で珍しくない。寝返ったCNACは新中国政府のもとでの民間航空部門である中国民航(現在は中国国際航空などに分割)の母体となった。2010年代に入ってからと思うが、米国サンフランシスコ空港ロビーに展示室が新設置され、戦前のパンアメリカン航空の大型飛行艇によるサンフランシスコ-上海便とCNACの珍しい物品の展示がある。
1940年12/10 東京朝刊
エールフランスのハノイ-ビエンチャン-サイゴン路線は、タイ仏印間が全面交戦状態になったので、ハノイ-ツーラン-サイゴンの海岸コースに12月9日から変更された。
ポスター入手経緯:
2013年9月28日に秦川堂書店から購入。税込157,500円。その時のクレジットカード売上票。秦川堂書店は、神田の岩波書店アネックス2Fにある有名古書店である。かつて、研究上の資料(何かは忘却)を秦川堂書店から購入したことがあり、その後、目録冊子が明治大学研究室宛てにずっと送られてきていた。それを見ていて、偶然に発見した。大日本航空がバンコクまで路線を持っていたことを記憶していたからである。すぐに店舗に出向き、購入した。なお、別頁の中華航空ポスターの頁も参照。より詳しい説明がある。
参考文献:
『日本民間航空史話』(日本航空協会、1966)
大日本航空社史刊行会『航空輸送の歩み 昭和二十年迄』(日本航空協会、1975)
『日本の航空史 上』(朝日新聞社、1983)
河守鎮夫・中西正義・藤田俊夫・藤原洋・柳沢光二 編著『J-BIRD : 写真と登録記号で見る戦前の日本民間航空機 : 満洲航空・中華航空などを含む
: Japanese Aircraft Register 1921-1945』(日本航空協会航空遺産継承基金、2016)
※ 『J-BIRD』は、副題の内容についての、現時点でのもっとも広範かつ正確な情報源である。第二次世界大戦前の日本の航空機原簿(登録及び堪航証明書原簿)は、敗戦直後に多摩川河川敷で焼却された(『J-BIRD』404頁)ため、基本文書資料は存在しない。そのため、同書の編著者たちは、調査に苦労に苦労を重ねて同書を完成させた。その苦労に敬意を表したい。
柳沢光二『空の旅』(洋美社、2019)