中華航空のポスター

タテ74cmヨコ100cm 美品で画鋲痕なし
ポスター製作は、1938年12月17日の中華航空設立以降、1941年6月より前と思われる
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この頁でいう中華航空は、現在の台湾をベースとする中華航空とは無関係である。この頁の中華航空は、1938年12月17日に設立され、日本のための国策航空会社であった。形式的には民間航空会社であるが、実質は、日本軍と密接な関係にあった。
ポスター下部に、運航路線が描かれている。この路線図と、会社設立時の運航路線(『航空輸送の歩み』247頁)はよく似ている。他方、1941年6月からの時刻表(『航空輸送の歩み』252頁)では、ポスターおよび会社設立時の運航路線にない徐州-開封の路線や大同-運城などの路線が加わっている。このことから、ポスター製作は1938年12月の会社設立から1941年6月までの間と推測できるが、それ以上の推測は現時点では出来ない。多数の中国都市を結ぶ運航路線であるが、これら都市を点とすると、点を線で結ぶ地域を日本軍は占領し支配しているといってよく、点と線の周辺は中国側の支配地であったといってよい。中華航空の最盛期には大小各種機材を合計約100機所有していた(『航空輸送の歩み』250頁)。
入手経緯:
2014年11月3日に秦川堂書店から購入。税込262,500円。その時の領収書。秦川堂書店は、神田の岩波書店アネックス2Fにある有名古書店である。大日本航空の英文ポスターを購入後、送られてくる秦川堂書店の目録冊子をしっかり見ていて、このポスターを発見した。すぐに店舗に出向いて購入した。また、事情を聞いた。店主の永森譲氏によると、およそ下記の通りであった。「ポスター出所は、大日本航空の英文ポスターもこの中華航空ポスターも、大日本航空関係者?(の家族?)であって、この2枚の他、5枚のポスターがあった。目録冊子への最初の掲載はずいぶんと前だった。ほどなく、中国人が5枚のポスターを購入していったが、しかし、大日本航空の英文ポスターと中華航空ポスターの2枚は購入しなかった。その後、これら2枚は、ときおり目録冊子に掲載したが、まったく売れないまま、時間が経過した。それを私が前年と今年に購入したことになる。(私が、同一者からの出物は他に残っていないか尋ねると、しばらく調べて)もう残っていない。」 (2022年2月5日追加注記: 某氏によると、1998年の秦川堂書店の目録冊子にポスターがすでに掲載されていたとのことである)
(入手についての私のコメント)
中国人が購入していったという5枚のポスターの内容を、店主の永森譲氏に私は確認しなかった。これは私の大きな失敗であった。そこで今、5枚のポスターを推測すると、日本語で書かれた大日本航空(または、or に加えて、大日本航空の前身である日本航空輸送)のポスターであろうと思う。これらは複数種類の存在が知られており、日本の国内外で複数部が所有されている。全部で7枚のポスターが秦川堂にあったとして、7枚中にこれらが皆無だったとは考えられず、逆に、7枚中で5枚がこれらであった可能性は高いであろう。
では、これら5枚だけを中国人が購入した理由は何なのか。私の推測では、5枚を購入した中国人は、これらを高値で転売して利益を得るためであったと思う。戦前日本を含めて、戦前の航空会社ポスターは欧米諸国を中心にマニア間で人気があり、高値で売買されている。これらを集めた画集も数種類が刊行されている。中国人はこうした事情を知っていたのだと思う。では、大日本航空英文ポスターと中華航空ポスターを、この中国人はなぜ購入しなかったのか。私の推測では、この中国人はマニアでなく、そのため、この2枚の意味や価値がわからなかったためであったと思う。しかし、希少性の観点からは、この2枚の方がはるかに珍しいポスターである。そもそも製作時に、ある部数は日本国外に持ち出されていて、その地で消耗されたはずで、日本国内に残った部数は少なかったはずである。そして内容は、日本語で書かれた大日本航空や日本航空輸送の一般的ポスターよりも、ずっと特殊である。現在は、この2枚しか現存していない可能性すらあろう。中国人がマニアでなく購入しなかったのは、私にとっては幸いであった。
このポスターに画鋲痕がないことから、実際には掲示されなかったものである。もともとの所有者は、大日本航空の経営者のひとりである可能性が高いであろう。ポスター製作時に完成見本として届けられたものを、そのまま私的に保管したものである可能性が高いであろう。
参考文献:
大日本航空社史刊行会『航空輸送の歩み 昭和二十年迄』(日本航空協会、1975)