表紙写真のうんちく-2022年掲示-
2022年12月30日より掲示
Historic Aircraft Restoration Society(HARS),Australia 所有のロッキード L-1049Gスーパーコンステレーションもどき 、愛称はコニー(VH-EAG):オーストラリア、Albion Park Regional Airport
この機体は米空軍機C-121として1955年に製造され使用されたが、1967年から米国のいくつかの州空軍で使用の後、1977年から保管されていた。1992年?にHARSが購入し、L-1049Gもどきに修復の後、1994年にオーストラリアの登録記号VH-EAGを得た。1996年に米国からオーストラリアに空輸され、以後、HARSで展示とともに、オーストラリアのエアショーで展示飛行をする。この写真は、2022年11月12日開催のWings over Illawarraエアショーでの撮影である。
ロッキード L-1049Gスーパーコンステレーションは、1951年初飛行で、ピストンエンジン付き大型旅客機の最後を飾る機体であった。その米軍用機型がC-121であった。L-1049Gスーパーコンステレーションは、その高速と長距離飛行能力で、太平洋と大西洋を横断する豪華客船から客を奪った。また、その美しいスタイルも人気があった。その美しいスタイルには有名なエピソードがある。当時、大富豪でヒコーキマニアであり、トランスワールド航空のオーナーであったハワード・ヒューズが、高速で長距離飛行能力があり、また美しい旅客機をロッキード社に求め、設計途中でもいろいろと口を出して完成したのが、この機体だとのことである。確かに美しく、マニアに旅客機の人気投票をすると、おそらく1位になると思う。エアショーでは、機体を傾けて地上の観客の前を飛び、美しいスタイルを観客に見せてくれる。
しかし、この機体は実用性に問題があった。1つは、乗客の荷物を積むスペースが十分でなかったことで、長距離便にもかかわらず、乗客が預ける荷物に大きな制限があった。この問題解消のため、機体外下部に大きな脱着式貨物用パックをつける対策がとられたが、それは美しいスタイルを台無しにすることでもあった。もう1つは、高出力のためにピストンエンジンが技術的限界にあり、その整備が大変であったことである。
L-1049スーパーコンステレーションの製造は1958年に終了した。大型ジェット旅客機のボーイング707やダグラス DC-8の開発が進み、そちらを航空会社が購入するのが明白になったからである。
2022年12月15日より掲示
Air Canada Express (C-FJMG, DHC-8-102A):カナダ、モントリオール・ピエール・エリオット・トルドー国際空港(YUL)
ピエール・エリオット・トルドーは、カナダのかつての首相(第20代1968-79年、第22代1980-84年)の名前である。彼の長男ジャスティンが第29代首相(2015-)である。空港名にピエール・エリオット・トルドーが入れられたのは、2004年からである。 空港の南西側に、空港フェンスに沿って、ヒコーキを見るための公式の公園がある。撮影用の高台と、Bleacher(階段状になった見物席のこと)がある。この写真は、Bleacherからの撮影。今調べると、公園の名はPARK JACQUES-DE-LESSEPSである。 Jacques Benjamin de Lessepsは、フランス人の飛行家で、1910年にイギリス海峡を飛行機で横断した。1909年にLouis Charles Joseph Blériotが初めて横断し、Jacques Benjamin de Lessepsは2回目の横断であった。Jacques Benjamin de Lessepsは、1927年にカナダのケベック州沖の海に墜落死した。公園の名は、彼を記念してのものである。
Air Canada Expressは、大手であるAir Canadaの地域路線を担当する地域航空会社数社の統一ブランド名である。 DHC-8-100 は、De Havilland Canadaが開発したDHC-8型機の最初のシリーズである。De Havilland Canadaは、英国のDe Havilland社が1928年に製造子会社としてカナダに設立したが、第二次世界大戦後は、DHC-1からDHC-8までの独自の航空機を開発し製造した。 De Havilland Canadaは1980年代にBoeing社に売却され、ついで1992年にBombardier 社に売却された。しかし、2018年末に、De Havilland Canadaの元社員が設立した会社に、DHC-1からDHC-8までの製造権が譲渡された。DHC-8-400はDHC-8の最後の型(この頁の2022年6月12日よりの掲示を参照)で、優秀機でまだ需要があるはずだが、コロナ禍のため、今後の生産は不透明と思う。
C-FJMGの初飛行は1991年で、それ以来、カナダの様々なブランド名で2022年12月現在も飛び続けている。なお、シャッタースピードは1/400である。にもかかわらず、プロペラがあまり写っていない。離陸時でもあり、相当な高速で回転している。やや古い製造なので、低速で回転だが高出力の最近のプロペラ推進ではないと思われる。
2022年9月23日より掲示
White Airways(CS-TKI, Airbus A310-304): 仏国シャルル・ド・ゴール国際空港(CDG)
在イギリス研究中の2005年6月に、パリに遊びに行った。その時の撮影。この頃までは、CDGは簡単に撮影できるスポットが多く、これもその1つで、空港駅の1つから徒歩で10分程度で着くことができた有名スポットだった。撮影時に、マニアが10人くらいはいたと思う。スポットと機体がある誘導路との間に大きな溝があって、そこにフェンスがある?ので、脚立不要でこのように見えた。大型機の真横なら標準レンズでもはみ出すことがあるくらいの近くである。この写真は35ミリカメラ換算で200ミリ程度の望遠レンズで撮影であった。さらに、CDGは珍しい旅客機が飛来するので有名であった。まさに、撮影マニアの天国であった。
しかし、その後、しだいに撮影が困難になった。この場所も、早くから立ち入り禁止になった。また、空港周辺を含めて、撮影には許可証を得ておくことを求められた。許可はメールで得ることができるが、今回、確かめると、仏文で許可申請書を書かないと許可が出ない・遅れる との情報があった。また、今年2022年になって、老朽化でターミナル1が閉鎖になった、とのことである。ターミナル1は円形で、シャルル・ド・ゴール国際空港開港時にできたターミナルであった。車道が円環状にターミナルを囲んでいて、そこからガラスなど遮るものなく撮影が簡単であった。残念。現在は、許可証を持って、空港外周道路をレンタカーで移動して撮影するのが普通のようである。仏語が話せないと事実上は難しい。上記のスポットで撮影したのは、この時だけであったかもしれない。もっと出かければよかった、と後悔だが、しかたがないことである。
White Airwaysはポルトガルのチャーター便の小さな会社である。2005年設立。親会社が変わりながら、現在も運航している。CS-TKIは、もとはカナダ籍で1988年初飛行で、数年で所有者をかえながら2005年にWhite Airwaysが所有しCS-TKIとなった。2014年にスクラップにされた。
2022年8月25日より掲示
Flyglobespan (G-CDEG, Boeing737-800): 英国グラスゴー空港(GLA)
在イギリス研究中の2005年3月21-23日に、グラスゴーで開催された学会に出席した。その帰途、空港で搭乗を待っているときに、窓越しに撮影した。
Flyglobespanは、2003年4月から2009年12月までの短期間だけ存在したところの、英国の格安便航空会社LCCであった。親会社はスコットランドの旅行会社であった。グラスゴー空港などスコットランドの空港をベースに、カナダや米国などの長距離も含めて、英国北部の空港から外国に飛ぶ路線を多く持っていた。しかし、2007年には財務状況悪化が明らかになって、改善にがんばったものの、2009年12月には運航を停止した。 LCCは競争が激しいので、運航停止や倒産する会社は珍しくない。 Flyglobespanの経営不振の理由は、私見では、路線のつくりかたにあったと思う。長距離便も多かったが、それらを含めて、週あたり2-4往復の路線が多かった。しかし、これでは、運賃がいくら安価であっても、ビジネス客はあまり利用できない。そして、ビジネス客を除外した客層だけでは、客数が少なく、利益が上げられなかったと思われる。
この時、私はFlyglobespanの機体を初めて見た。見た瞬間に、リバリー(外塗装のこと)はおしゃれに良くできていると思った。しかし、この時以降、Flyglobespanの機体を見る機会は私になかった。まさに一期一会であった。
2022年8月3日より掲示
Roe IV Triplane のレプリカ機 (G-ARSG, Shuttleworth Collection 中の1機): Old Warden Aerodrome, Bedfordshire, England
Roe IV Triplane の原型機は、1910年に、Alliot Verdon Roeの設計で1機だけ製作された練習機であった。 Alliot Verdon Roeは英国の有名航空機製造会社であったAVROの創業者である。AVROが自分の姓名の頭文字であることに注意。レプリカ機は、1964年に映画撮影用に1機だけ製作され、1965年にShuttleworth Collection に寄贈され、現在にいたる。
Shuttleworth Collection は、古い航空機の博物館で、航空機博物館としては世界最古といってよい。40-50機を所有するが、数機を除いて、ほぼ全機が飛行可能である。マニア好みのレアな機体が非常に多い。5-9月に、月に1回程度の割合で、エアショウがある。エアショウ会場はOld Warden Aerodromeの自前の滑走路(2本ある)がある広大な緑地である。Old Warden Aerodromeのある土地は、滑走路がある広大な緑地のほか、豪華な大屋敷や広大なガーデンなどもある。エアショウにはShuttleworth Collection所有機の20機以上が飛行する。また、航空機マニアが航空機(しばしば、古いもの)を自ら操縦して、エアショウに来訪して着陸する。来訪機は数十機になることがあり、来訪機の離着陸自体がショウになる。私はここのエアショウが大好きである。
Shuttleworth Collection は、Richard Shuttleworth(1909-1940)が集め始めた古い航空機群がはじまりであった。彼の父は、彼が4歳の時に死去したが、彼の父の父すなわち祖父は19世紀後半-1920年代の英国製造業大企業の創業者で大金持ちであって、彼が23歳の時、彼は莫大な遺産を相続した。彼は操縦士の民間資格をもっていたが、第二次世界大戦中の1940年に、軍用操縦士になるべく夜間飛行訓練中に、墜落死した。彼の死後、彼の母であるDorothy が1944年にShuttleworth Collectionをトラストとして設立した。そして現在にいたる。
古い所有航空機がつねに飛行可能なように整備することは大変なはずだが、フルタイムの整備士を12人雇用しているほか、整備士やパイロットを含む3000人のボランティアがいるとのことである。たしかに、エアショウの際は、数百人のShuttleworth Collection 側のスタッフがいる。余るほどのスタッフの数である。ヒコーキマニアがダントツに多い英国だからこそ成り立つ博物館とエアショウである。
2022年7月21日より掲示
ヤクーシア航空(RA-85812, Tupolev Tu-154M): フランス ストラスブール国際空港(SXB)
在イギリス研究中の2005年5月に、フランスのアルザス・ヨーロッパ日本学研究所の「勉強会」に招待され、日本語で執筆したペーパーを発表するとともに、日本語での議論に参加した。その時に発表したペーパーは「日本の個別労働紛争」である。論文末に簡単な経緯を記している。アルザス・ヨーロッパ日本学研究所の所在地の最寄り空港は、ストラスブール国際空港(SXB)である。「勉強会」後に、同空港から格安航空便LCCのEasyjet(またはRyanair)に搭乗してロンドンに戻った。LCCへの搭乗は、コスト削減のため、しばしばボーディングブリッジを使わず機体を「沖止め」にし、乗客は空港ビルから機体まで地上を徒歩である。このときもそうであった。しかも徒歩時間は長かったと思う。徒歩中に、脇の誘導路を、RA-85812がタキシングした。標準レンズ付きカメラを持っていたので、撮影した。
Tupolev Tu-154Mは、旧ソ連製の旅客機で、もっとも成功した機体の1つであった。Tu-154は1968年初飛行だが、その全面改良型であるTu-154Mは1984年に生産開始であった。在イギリス研究中の頃までは、ヨーロッパの主要空港でも見かけることが多かったと思う。しかし、しだいに使用されなくなり、ネット情報では、RA-85812も2012年後半には保管状態になっている。実際は、廃棄されたか、空港の隅で朽ち果てていると思われる。
2022年7月9日より掲示
個人所有のN261ER (AERO COMMANDER 500-B): 米国ミシガン州 Jackson County Airport
2012年の夏に、ある調査企画のチームで、米国ミシガン州中部ジャクソン市(デトロイトから西に80kmくらいの距離)に数日滞在した。日曜日に調査はできないので休日だが、チームで昼食をとりに、この空港のレストランに出かけた。その時の撮影である。この空港は、いかにも米国の地方空港で、定期便がないのはもちろん、数機の駐機しかないのんびりした空港であった。しかし、滑走路は十文字で2本あった。贅沢なものである。
この機体N261ERは、なんと1963年製であり、撮影時で49歳であった。この時点で、かなりの老朽機であった。ネットで調べてさらに驚いたのは、この機体は2022年7月現在も、実際に飛行していることである。59歳である。おそらくベース空港は、フロリダ州のタンパ国際空港または周辺の小飛行場であって、Central Air Southwestという会社が、1日1-2便程度、せいぜい1時間程度の飛行を運航している。飛行するだけでも大変なはずで、劣化による安全性が気がかりな老朽機だが、おそらく商用ベースで飛行している。N261ERとの登録は2024年まで有効とのことで、このころまでは飛行している可能性がある。
AERO COMMANDER シリーズ に私は特別の思い出がある。旧岡山空港(現在は岡南飛行場)の空港ビル屋上に、AERO COMMANDER 520(500とほぼ同型)が1963年秋から展示されていたからである。これは、もとJA5001の朝日新聞社所有の初風号であった。1951年製で、AERO COMMANDERシリーズの量産1号機だったはずである。1952年に輸入され、レシプロ双発機登録の戦後第1号であるJA5001として、1963年まで活躍して廃棄となり、秋に旧岡山空港に空輸されて、展示された。1963年10月13日に岡山空港開港1周年のイベントがあった。私はイベントに参加し、人生初めて、ささやかなエアショウをみた。ヒコーキ写真も初めて撮った。展示のJA5001に初めて触った。私のヒコーキ趣味のはじまりだった。
旧岡山空港ビルは2004年に解体され、そのときJA5001も撤去された。時は流れていく。
2022年6月12日より掲示
Air Berlin (D-ABQH, DHC-8-402 Dash 8, オーストリア ザルツブルグ空港(SZB 正式名は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト空港)
空港ビルの屋上は、展望デッキとして公開されている。そこからの撮影。機首の先に見える白い建物は、ザルツブルグ城である。城とからめて離陸機を撮影しようとしたが、最善のショットがこれだった。撮影のための滞在時間は短く、小さな街の空港で離陸する機数は多くないので、仕方のないところである。空港は、ザルツブルグ中央駅からローカルバスで30分もかからない近距離にあり、市中といってもよい。写真の枠外の左下に、redbullの博物館があり、飛行可能な昔のヒコーキ機が展示されている。それらは、エアショウなどには、この空港から離陸して向かう。私は、展示中のヒコーキ機には今ひとつ興味がわかないので、博物館には行っていない。
撮影は、シャッタースピード1/400秒である。だから、プロペラは、止まってはいないが、見える状態である。プロペラが回転して見えないように撮るには、1/250が上限(できれば1/125以下が望ましい)が、他方、シャッタースピードが遅いと、望遠レンズではブレる可能性も大きくなる。わずかなチャンスを失敗したくない、との思いがあって、1/400は「妥協」の産物である。
Air Berlinは、準大手といってよい歴史ある会社で、ワンワールドのメンバーであったこともある。しかし、格安航空会社でもなければ、フルサービス航空会社でもない、というやや中途半端な性格だった。これが一因だったと思うが、撮影した2016年夏の頃すでに、Air Berlinは経営不振だった。結局、2017年10月に倒産してしまった。機材や従業員の多くは、ルフトハンザ航空に引き取られた。
2022年6月1日より掲示
IBERIA EXPRESS (EC-MEH, Airbus A320neo (A320-214): スペイン マドリッド・バラハス国際空港(MAD)
地下鉄のバラハス駅から徒歩10分位で、空港内の航空機がこのように見下ろせるスポットがある。この空港でもっとも有名な撮影スポットである。いま、グーグルマップで確かめると、ヒコーキがよく見える場所としてこの場所にマークがある。背景の大部分は、空港内の誘導路である。この空港のレイアウトはやや特殊で、写真の左手奥から写真外の左手さらに奥に2本の平行滑走路があり、また、右手の写真外に、右手奥に伸びる2本の平行滑走路がある。ターミナルビルは、写真外の右手と左手にある。これらに囲まれた広大な空間が、写真の背景となる。おそらく、滑走路の逐次増設の結果で、このようなレイアウトになったのであろう。
IBERIA EXPRESS は、イベリア航空の子会社で、格安便を運航している。機材はAirbus A320だけに統一されているようで、運航や整備の易さを考慮している。写真の機材は、2001年5月にサベナ・ベルギー航空で運航開始したが、同年11月にサベナ・ベルギー航空が経営破綻したため、他社に売却され、その後、いくつもの会社をへて、IBERIA EXPRESSで運航されている。サベナ・ベルギー航空は1923年設立のヨーロッパの古い名門会社であったが、1990年代後半から業績は不振であった。2001年9月のアメリカ同時多発テロがSwissairの破綻を引き起こし、Swissairと提携していたサベナ・ベルギー航空も経営破綻した。連鎖破綻であった。サベナ・ベルギー航空の機材や路線の一部を引き継いだのはブリュッセル航空であった。
2022年5月6日より掲示
ルフトハンザ航空(D-AINC, Airbus A320neo (A320-271N): 独国ミュンヘン国際空港(MUC)
ミュンヘンは、かつて共同研究者がいたこともあって、訪問する機会が比較的多かった町である。最初の訪問は1990年代前半だったと思う。ミュンヘン国際空港の1つ手前の駅はBesucherparkで、そこから徒歩約10分のところに同名の公園がある。そこには空港とヒコーキを見るための小山が築かれていて、その小山からの撮影が掲示の写真である。公園は、私の印象では、行く度に、子供向けの設備が増えていて、遊んでいる子供が多くなっている感じがする。公園にレストランがあって、忘れられない驚いた記憶がある。ある日、小山での撮影から昼食のためにレストランに戻り、注文した食事を待っていた。視線先の隣席に、60歳よりはずっと上らしい白髪の女性2人が座り、すぐウェイターに何か話した後に、2人で話をつづけていた。すぐにウェイターがもってきたのは、ビールが入った1.5リットルは優にある大きなグラス2つだった。女性は2人ともそれを両手で重そうに持ち上げ、ごくごく飲んだ。それからメニューを見始めた。1.5リットルのビールはまるでお茶代わりだった。こういう光景を私は見たことがなく、すっかり驚いた。その数日後だが、共同研究者のひとりである女性研究者A氏に会う機会があり、見た光景を話した。するとA氏が言うには「それは珍しいことではない。ドイツは水質が悪い。水の代わりにビールを飲むのは、昔はよくあった。私も、子供の頃、水を飲まないでビールを飲めと、親からよく言われた。」とのこと。私はさらに驚いた。A氏は、私より10歳以上は若いはずだった。
掲示写真の背景の建物は、撮影地から4-5kmほど北のフライジング市の中心の丘上にあるフライジング大聖堂である。それなりの名所らしいが、私は訪問したことがない。着陸機が緑の中に収まり、その上に大聖堂があるという構図はなかなか良いが、撮影は簡単ではない。着陸機がしばしば高すぎて、大聖堂と重なってしまうからである。
2022年4月24日より掲示
ガルフストリーム社の社有機または関連会社の社有機(N551RC, Gulfstream GV-SP(G550)): ボストン・ローガン国際空港(BOS)
2017年夏にハーバード大学図書館に文書閲覧に行く機会があり、そのときに、ボストン・ローガン国際空港ではじめて撮影を試みた。同空港は湾につきでた半島にあり、しかも300度位の周囲を陸地がとりかこんでいるという、特殊な地形にある。そのため撮影可能地は多い。朝は最も遠いポイントに行ったのだが、晴れで風向きは良いにもかかわらず、目当ての滑走路に全く着陸しないので、撮影できない。昼前にあきらめて移動して、電車駅そばの地元レストランで食事をして(思いのほか居心地が良かった、客は地元の人ばかりのようだった)、近くのOrient Heights Beachでベンチに座り撮影することにした。あいにく、薄曇りになった。着陸機はごくわずかで、離陸のため滑走路端に移動する機体の撮影が主になった。風向きと滑走路(4本あるが3本の方向はばらけている)使用のルールがよくわからず、快晴でないこともあり、やや不満が残った。
Gulfstream GV-SP(G550)は、18人乗り程度のビジネス機としては大型で、長距離を飛ぶことができるのが特徴である。豪華ビジネス機である。機体デザインがほぼ同一で、しかし機体サイズはわずかに大きくなるという発展の歴史があり、生産が長期間継続している。過去型は、航空自衛隊や海上保安庁も使用している。ガルフストリーム社が製造する。ガルフストリーム社は、1978年までグラマン社のビジネス機製造子会社であって、私の記憶の中では、この機種の名称は「グラマン・ガルフストリーム」である。ガルフストリーム社は、現在はグラマン(ノースロップ・グラマン)と特に関係がない。
2022年1月18日より掲示
Ausutrian Arrows(OE-LVE, Fokker 100): ウィーン国際空港(VIE)
空港ビルのすぐ後ろにある駐車場P3の上階から撮影。2012年の撮影と思う。ウィーン国際空港(VIE)は、撮影が容易な空港である。駐車場P3の上階からの撮影は、順光なのは朝に限られるけれども、緑が多い背景で離陸を撮影できて、私は好きである。機体はこの直後に高度を増して、空を背景に撮影できる。
Ausutrian Arrowsは、もとはTyrolean Airways という会社であったが、1998年にAustrian Airlinesに買収され、Ausutrian Arrowとなった。路線はもっぱら近距離であった。しかし、2015年に、Austrian Airlinesに吸収されて、Ausutrian Arrowsという会社はなくなった。
Fokker 100は、座席数約100席を示す名称である。初飛行は1986年で、1988年からSwissairで初就航した。オランダの名門航空機製造会社フォッカー社が最後に量産した機体といってよい。というのは、初就航の頃には、フォッカー社の経営状況は悪化をはじめていて、1993年にドイツのDASAの完全子会社になるなど、なんとか生き残りに努力したが、結局、1996年にフォッカー社は倒産してしまった。
2022年1月2日より掲示
Swissair(HB-IWU, MD-11): Zurich-Kloten Airport(ZRH)
空港ターミナルBにある展望デッキから撮影。おそらく2001年9月15日の撮影で、アメリカで起こった9月11日の同時多発テロの直後である。私は、9月11日の同時多発テロをドイツのFriedrichshafenで聞いた。Friedrichshafenはツェッペリン飛行船の博物館があり、その見学後の夕刻に市中心部のバスターミナルでホテルに行くためのバスを待っていた。テレビで、ワールドトレードセンター炎上の映像とニュースが流れていたが、意味がわからなかった。ドイツ人が無言で画面を見ていたのを覚えている。すぐにバスが来て乗り、ホテルでテレビをつけて、大変なことが起こったのはわかったが、安ホテルのためドイツ語放送のみで正確にわからなかった。苦労してインターネットにつなぎ(このころは電話回線利用の接続だった)、やっと事情がわかった。翌日、スイス領行きのボーデン湖横断フェリーに乗ろうと港に行くと、スイス兵が乗客をチェックしていた。若い小柄な女性兵士が、自分の背丈ほどある大型マシンガンを首から提げていて、私に気づくと、結構多くの質問をしてきた。時々あるが、ヨーロッパの人は、東アジアの人間と西アジアの人間の区別があいまいだったためかもしれない。その日のうちにチューリッヒに到着し、夕刻、食事にでると、安いレストランに若い兵士が多数いて食事をしていた。聞いてみると、前夜に非常招集があり(スイスは国民皆兵であって、かれらは予備役兵のはず)、夕刻に彼らは召集解除になったとのことだった。
チューリッヒ空港には、離陸機をこのように撮影できる広い展望デッキがある。当時から20年がたった現在も、展望デッキは存在するようだが、私はこの時以来、この空港に行く機会が無い。また、撮影したSwissairは、経営不振のため、約2週間後の10月2日に破綻してしまった。子会社のCrossairが路線と機材を継承し、翌年2002年4月1日からSwiss International Airlinesと企業名を変更して、運航を続けた。同社は2005年にドイツのLufthanzaに買収されて、その傘下に入って、現在にいたる。
この写真は、明治大学のサイトに私のホームページを創設した2003年春の早い段階で、フィルム写真からスキャンして画像データを作成し、私のホームページに掲げていたものである。私にとって初めての作業だった。そのため、画像データがひどく粗い。また、望遠レンズが安物だったため、周辺減光があり、写真の周辺部がすこし暗いのがわかるだろうか。この頃から現在までの約20年間でも、望遠レンズの性能進歩と、にもかかわらず価格低下はすざまじい。まして、私がヒコーキ撮影に関心を持った1965年頃から現在までのカメラとレンズの進歩は驚くべきものがある。