遠藤秀雄の年譜(第二次世界大戦敗戦まで)


1904年(明治37年)5月8日 岡山県苫田(とまだ)郡林田(はいだ)村川崎で誕生

 父の誕生地は、吉井川とその支流の加茂川に挟まれた合流点(川崎の地名がそれを表示している)の地であり、津山と姫路方面を結ぶ街道沿いであった。現在は津山市内であって、JR東津山駅にも近い。誕生地は寄留地であり、誕生時の本籍地は津山市旧市内の東新町の商家だった。この商家は、箕作阮甫(みつくり・げんぽ)などの箕作家の家塾の近くであった。1924年に、誕生地の2軒ほど西隣地が、父と、父の父である慶太郎(けいたろう、私の祖父である)の本籍地に変更された。私の推測では、慶太郎が川崎の本籍地を購入して転居し移籍したのである。
 慶太郎は、桶(おけ)職人であった。つくっていたものには、津山近辺にある造り酒屋用の酒桶や酒樽なども含まれる。そして、桶や樽の製作と同時に、竹材の仲買もしていた。父の記憶では、山奥の竹林から竹材を荷馬車で川崎の地まで運び出し、そこから吉井川を利用して竹材を筏(いかだ)に組んで送り出し、四国の業者などに売り渡していた。川崎の地は、その生業の適地であった。父の母(すなわち慶太郎の妻であり、私の祖母である)は、勢以(せい)であった。
 父には、7歳年上の兄である義一(よしいち)がいた。父と義一との間に兄一人と、父の妹が生まれていたが、二人とも乳児期に死亡していた。そのため、父と義一の2人兄弟であった。

1911年(明治44年)4月 苫田郡林田村立林田尋常高等小学校入学
1917年(大正6年)3月 苫田郡林田村立林田尋常小学校卒業


 兄の義一も同じ小学校の卒業であった。義一は小学校の成績もよく、「出来のよい子」として知られていた。父は、甘やかされて育ったため、小学校の成績は相当に悪く、「腕白坊主」として知られていた。高学年のときに、高価な空気銃を親に無理にせがんで買ってもらい、雀を撃つために、近隣の家々の屋根にのぼって壊したことがある。小学校の教師に、「義一の本当の弟か」と父はしかられた。しばしばある兄弟パターンと私は思う。また、慶太郎の一家がそれほど貧しくなかったことも、推測できる。

1917年(大正6年)4月 苫田郡林田村立林田尋常高等小学校入学
1919年(大正8年)3月 苫田郡林田村立林田尋常高等小学校卒業


 父は、高等小学校卒業のとき、岡山県南部の県立岡山工業学校や県立倉敷商業学校などを受験したが、2校とも不合格であった。岡山工業受験のとき、試験問題の「黄昏」が「たそがれ」と読めなかったことを、父は記憶している。また、倉敷商業の受験は、兄の義一が倉敷市にある倉敷紡績の「工手学校」に入って、その後、倉敷紡績の養成工となっていたから、であったという。
 父の両親は、父の受験にそれほど熱心でなく、不合格を予期し、期待していたようにさえ思われる。すなわち、長男の義一がすでに親元を離れていたから、父が慶太郎の生業をついで親元にとどまることを期待していたと思われる。
 小学校の同期卒業者約40名のうち、津山中学(旧制)に2人が進学したが、彼らや、その他の各種実業学校や女学校の進学者をふくめて、進学者すべてで、10名あまりであった。

1919年(大正8年)4月 苫田郡高野村立高野実業補習学校入学
1920年(大正9年)3月 苫田郡高野村立高野実業補習学校卒業


 高野実業補習学校は、昼間の学校である。父のように、進学しない(できない)が、すぐに働かなくてもよいという子供が通学した。林田実業補習学校は夜間しかなかったので、徒歩40-50分の隣村まで通学したのである。高野実業補習学校の卒業時もどこかの学校を受験し不合格であったと思われるが、私は父に確かめていない。または、上記の2校のうちのどちらかが、この時の受験のことかもしれない。
 父が、高野実業補習学校の卒業記念に自作したのが、「勤労」額である。この額の製作にみられるように、少年時から、手先は相当に器用であった。慶太郎の生業を幼少時から手伝い、父は竹材の細工をしていたが、そのためかもしれない。晩年になっても、木製建具の分解補修さえ、自分でやっていた。また、額裏の自筆にみられるように、天性的に、かなりの能筆であった。とくに練習したわけでないのに、小学校低学年のときに、すでに相当なレベルに達していた。[額裏の自筆]また、書道の競技会で賞状や賞品もいくつか得たが、賞品の1つである硯箱を晩年まで使用していた。

1920年(大正9年)4月 苫田郡林田村立林田実業補習学校入学
1921年(大正10年)3月 苫田郡林田村立林田実業補習学校卒業


 林田実業補習学校の卒業証書は確かに存在するが、父によれば、それは虚偽で、まったく通学しなかった。証書は、ずっと後年に送ってきたものという。この1年間は、慶太郎の生業を手伝うとともに、近くに住む青年の家で、ときおり学んだ。英語もはじめてこの時学んだ。父の記憶によれば、この青年は非常にできる人であったが、その経歴も、なぜ津山近郊の田舎にいるのかも、よくわからなかった。また、帝国実業講習会の通信教育をうけ、卒業した。
 この間、父は親元を離れたかったらしく、岡山に一人で出かけ(父は、津山から岡山までの50km以上の道のりを自転車で行ったことがあったが、このときのことらしい)、呉服屋への奉公を希望したことがある。しかし、親元の承知しない奉公は許容されず、のちに知った両親も許さなかった。3月に、どこかの学校を受験し不合格であった。

1921年(大正10年)4月 大阪工業専修学校中等部(夜学校)入学

 父は4月になって一人で大阪に出て、夜学校を受験し、合格して入学した。この大阪行きは、兄の義一の影響であった。義一は、倉敷紡績の工手学校をへて倉敷紡績で働いていたが辞職し、大阪に出て、1920年4月から大阪工業専修学校中等部(夜学校)に入学していた。そして昼間は、電球を製作する小工場の職工をしていた。父は義一を尊敬していたので、1年遅れて、義一にならったのである。
 父の両親、とりわけ母親である勢以は、父が親元を離れたことを非常に悲しんだ。毎日、陰膳(かげぜん)をしていたという。

1921年(大正10年)6月1日 東亜製作所の職工として就職。日給1円

 父は、大阪に出て入学後に職探しをしたが、夜学校に学ぶことを許す工場は少なく、難渋した。いくつかの工場をむなしく訪問した。たまたま、小工場である東亜製作所を訪問した。その技師長M氏と職長K氏が、偶然にも津山近辺の出身であったため、父は幸運にも採用された。父の話すアクセントが津山方言であったのを、両氏が気づいたのである。M氏は津山中学(旧制)の卒業生であった。父は、最初はコイル巻線工として働き、のちに、能筆を認められて、事務に従事した。
 東亜製作所は、北区の福島駅に近い工場地帯にあり、となりが大阪工業試験場であった。従業員20名余で、変圧器製作を試みる新興企業であった。芝浦製作所(現在の東芝の前身企業の1つ)の系統らしく、M氏もK氏も芝浦製作所から移ってきた人物であった。
 神戸に、父の叔父(父の母である勢以の妹「おみよ」の夫)にあたる井谷伊之吉が暮らしていて、父と義一はよく遊びに行っていた。井谷伊之吉は、三菱神戸造船所の職長であった。呉海軍工廠などでも働いたことがあり、腕のよい名のある渡り職工であった。鍛冶職らしい。私の父に「これからは内燃機関の時代だ」と強調していたという。1921年の夏、この叔父が造船所に入場せず在宅であったことを、父は記憶していた。在宅の理由を父は記憶していなかったが、6月から8月にかけての、第二次世界大戦前における日本最大規模の有名な争議(三菱神戸造船所争議)に関係すると、私は推測している。
 井谷伊之吉は3人の子供がいた。
 長男(幸一?、私の父のいとこであり、私の父の1歳年上)は、三菱神戸造船所の工手学校をでて三菱神戸造船所で働いていたが、不十分を感じ、夜間の神戸専修学校で学んだことがあった。父によれば、父の兄の義一と同じ、であった。父が長男にであって10年ほど後になるが、この長男は出張先の呉の宿で急死した。残された妻は、子供をつれて実家に帰った。岡山県高梁の人であったらしい。
 伊之吉には、長男の下に女子が2人いて、佐和子と智恵子といった。
 ずいぶんと後年になるが、私が1981年に東京大学助手に就職したとき、私あてに、井谷伊之吉の娘である佐和子(私の父のいとこにあたる、晩年は富士子と名乗っていた)から突然に就職祝いの品が届いた。私のおぼろげな記憶では、父と佐和子は長く音信不通であったのが、何かのきっかけで文通が再開され、その直後に、私の就職のことを父が手紙で知らせたからではないかと思う。それからほどなく、佐和子の不調、つづいて死去について、智恵子から父に知らせがあった。
 父が東亜製作所で働きはじめてから1年ほど経過して、東亜製作所は不況の影響で従業員を削減した。その過程では、銀行による理不尽な介入もあったと、父は記憶する。父は解雇されたが、同じく解雇された旋盤工の老職長の家で解雇反対ストライキが相談された。しかし相談はまとまらず、父を含む各職工がそれぞれの道を探すことになった。その折に、老職長は、父を激励する意味を込めて、柄が10センチメートル余りの小さな自作の金槌を父への餞別とした。その金槌を、少年時代の私は工作によく用いた。[餞別の金槌
 父が解雇された後になるが、東亜製作所は、結局、閉鎖された。技師長M氏や職長K氏も、別の仕事で苦労したことを、父は後に両氏に再会して聞くことになる。K氏は電気関係の小売商(?)を試みたが、うまくいかなかったらしい。
 ところで、K氏と同年輩の松下幸之助は、1918年(大正7年)3月7日に大阪市福島区大開(おおひらき)で創業し、「二股(ふたまた)ソケット」の製造販売で大成功を納めていた。松下の創業地は、東亜製作所から徒歩の距離のところと思われる。松下の大成功は当時でも評判であった。父によれば、松下も東亜製作所も、電気関係「企業時代」の産物であった。

1923年(大正12年)3月 大阪工業専修学校中等部卒業
1923年(大正12年)4月 大阪工業専修学校高等部電気科(夜学校)入学


 兄の義一は、1年前に、大阪工業専修学校高等部紡績科(夜学校)に入学していた。父が電気科を選んだ理由は、東亜製作所での経験が影響していたと私は思う。

1923年(大正12年)5月 官立大阪高等工業学校電気科の助手補として就職

 父は、東亜製作所を解雇された後、いわゆるアルバイトで食いつないでいた。荷車引きなどもやったという。しかし、どの仕事も体力的にきつく、夜学校との両立の困難を感じていた。父が大阪工業専修学校高等部電気科に入学した直後、夜学校の掲示板に、官立大阪高等工業学校電気科の助手補募集が掲示された。父は、これ幸いとばかりに応募し、幸運にも採用された。
 父が入学し学生であった大阪工業専修学校高等部は、官立大阪高等工業学校(大阪大学工学部の前身)の施設を使った夜学校であった。すなわち、昼間の電気科の助手補の職を、夜学校の電気科の学生を対象に募集し、父はそれに応募して採用されたのである。助手補の仕事は、実験実習講義の準備・補助・後片づけなどであった。また、学生への配布物を作成した。教授が作成した原稿をもとに、父が青写真原板に書き直し、青写真で配布物を作成するのである。したがって父にとっては、自分が夜学校で学ぶ内容について、そのいわば「予習」「復習」を昼間にすることが仕事になることを意味していた。父のいる場所は、夜も昼も同じである。きわめて恵まれた仕事であったといえる。
 父は、兄の義一とともに、朝早く間借りした部屋を出て、街の飯屋で朝食をとった。昼食は、パンと「砂糖水」が多かった。昼間の官立大阪高等工業学校では、「教授の弁当の世話を焼くおばあさん」が父を「苦学生」とみなし、何かと援助し励ましてくれて、父はありがたかった。夜学校のあと、街の飯屋で夕食をとった。
 助手補に就職後、勉強も仕事も安定した。1923年7月30日、父は、兄の義一、井谷伊之吉の長男、その友人、計4人で富士山に登頂した。富士山頂で撮影した写真が私の手元に残っている。カメラは、義一が購入していたコダックの「ベス単」であった。父も、この頃から、生涯の趣味であるカメラに関心を持ちはじめたらしい。須走口を下山したが、下山途中から御殿場まで、父の数歳上と思われるアメリカ人と一緒になり、「日米間の戦争の可能性」(!)を(おそらく日本語で)話した。父は、後年、「とんでもないことを話していた」と思うことになった。父と、兄の義一は、御殿場で一泊し、翌日一日は東京の浅草などを見物して、夜行列車で大阪に戻った。関東大震災のちょうど一ヶ月前のことであった。
 関東大震災のとき、父は、大阪市内の煙突が揺れるのを目撃した。近くでの地震と思ったが、あとで東京ときいて驚いた。やがて、大阪駅に被災者が着くようになった。通勤途中に大阪駅を通過していたので、被災者でごった返す様子をよく見た。後の、第二次世界大戦直後のようであった。

1924年(大正13年)5月 徴兵検査を受ける

 津山に帰省して、検査を受けた。結果は「第二国民兵」の判定であった。父の身長がかなり低かったためである。父は、そのほかの理由として、「軍縮」が叫ばれた時期であり、岡山県出身者がちょうど陸軍大臣であったため、と信じていた。
 なお父は、津山に帰省した時に、父が自作したラジオを持参し、父の父母にラジオを聴かせたことがある。そのラジオの一部は、父が他界するまで残っていたが、私が処分した。自作ラジオのことは、父が大阪工業専修学校高等部電気科に在学中のことと私はきいていたが、正確でないかもしれない。というのは、日本におけるラジオ放送開始は、東京で1925年(大正14年)3月22日、大阪で同年6月1日であり、津山での放送開始は、それよりずっと後と思われるからである。ラジオは、当時の最先端電子技術を集めた機器であった。

1925年(大正14年)3月 大阪工業専修学校高等部電気科卒業

1925年(大正14年)9月 官立大阪高等工業学校電気科の助手補を依願退職
1925年(大正14年)9月 倉敷紡績株式会社(岡山県倉敷市)の雇員に採用


 兄の義一は、大阪工業専修学校高等部を卒業後、倉敷紡績に再度勤務していた。義一の紹介で、父も就職した。父は大阪近辺の電鉄会社への就職を希望していたが、それがかなえられず、やむなく倉敷紡績に就職したのである。電気保全係であった。仕事中に、感電事故で重傷を負い、会社の病院に入院した。退院後は、本社の事務に配属されたが、希望の職というわけでなく、また、上司である主任が「偉そうにする人」で、上司と折り合いが悪かった。転職を考えた。阪急電鉄の加古川変電所への転職を試み、面接まで出かけたが、それを上司が知るところとなり、転職の話はつぶれた。ついで、M氏(東亜製作所のもと技師長)が日本電力尼崎発電所に次長として在職であり、M氏に手紙を出して、転職の斡旋を依頼した。

1927年(昭和2年)11月 倉敷紡績株式会社を依願退職
1927年(昭和2年)11月 日本電力株式会社尼崎発電所(兵庫県尼崎市)の臨時工に採用
1928年(昭和3年)5月 日本電力株式会社尼崎発電所(兵庫県尼崎市)の技工に採用


 日給の保守係であった。M氏の尽力による。

1928年(昭和3年)9月 日本電力株式会社を依願解傭
1928年(昭和3年)9月 大淀川水力電気株式会社本社の雇員に採用(東京)


 日本電力の技師長が、M氏をさそって、新興企業の大淀川水力電気株式会社に転職した。転職後、M氏が今度は父をさそってくれた。M氏が、「仕事の実績を示すものを送るように」と父に指示してきたので、父は、官立大阪高等工業学校の助手補のときに青写真で作成した配布物を送った。それが高く評価されて、父も転職した。父は、東京に移り、新発電所建設の製図に従事し、はじめて月給職となった。
 この転職は、かなりの栄転と考えてよいと私は思う。そして、父が採用された理由も、私はほぼ推測できる。父は、天性的な能筆であった。くわえて、私の手元に残っている後年の父の製図をみると、非常に美しい。おそらく、助手補のときの経験から、青写真の原図を美しく描く技術を身につけたのである。能筆と美しい製図能力、これらが評価され、採用されたのであろう。
 大淀川水力電気株式会社の入社から、1959年の中国電力株式会社の退職までは、事実上は同一企業に勤続であり、企業名は変化しても、それは企業再編の結果である。

1929年(昭和4年)8月 大淀川水力電気株式会社大淀川第2発電所建設所(宮崎県高岡町)に転勤

 東京で製図した新発電所の建設現場への転勤であった。

1929年(昭和4年)11月 電気主任技術者資格検定試験(第参種)合格

 大阪工業専修学校高等部電気科を卒業後、毎年、大阪で受験したが不合格が続いた。東京に移って東京で受験し、合格した。合格通知は、転居先の宮崎に転送されてきた。

1929年(昭和4年)12月 飯田久代と婚姻届

 久代が私の母である。母も津山の出身である。
 
1930年(昭和5年)7月 大淀川水力電気株式会社本社に転勤(東京)

 飯田橋近辺の家の2階を間借りして、父母で住んだ。ついで、青山の表参道付近の借家に移り、そこで暮らした。母の記憶によると、東京の街頭で津山の幼なじみの顔を偶然にみつけ、どこに住んでいるかを訊いたところ、「五反田」と大きな声で返事があったとのことである。電車などに乗るときのすれ違いざまのことと思うが、今の私は確かめようがない。
 本社での仕事は、新変電所の建設の製図であった。

1930年(昭和5年)12月 大淀川水力電気株式会社三池変電所建設所に転勤(福岡県大牟田市)

 東京で製図した新変電所の建設現場への転勤であった。

1931年(昭和6年)9月 「満州事変」勃発

1931年(昭和6年)11月 大淀川水力電気株式会社の職員に昇格
1931年(昭和6年)12月 大淀川水力電気株式会社大淀川第2発電所に転勤(宮崎県高岡町)


 仕事は、発電所の運転であった。とくに、給電の調整、すなわち電力消費の変化を計測メーターで見ながら、発電機を止めたり回したりするスイッチの開閉をやった。3交代勤務であった。現在ならコンピュータで調整管理されようが、当時はもちろん、目視による人力調整である。
 なお、私は父に明確に聞いてなく、今となっては確認が困難だが、このころから大淀川発電所の所長はM氏であり、次長はK氏であったはずである。
 同系企業の富山県の発電所で大事故があり、汽車で長時間かけて出張し、視察した。事故は、電流のショートから、発電水車が空回りして遠心力で吹っ飛び、鉄筋コンクリートの建物の壁を打ち破って、外に飛び出したものであった。幸いにも、怪我人1人がでただけであった。病院に見舞った。この事故は当時はよく知られたものであり、父にも印象が強かった。

1937年(昭和12年)7月 「日華事変」勃発

1939年(昭和14年)7月 大淀川水力電気株式会社が解散し、電気化学工業株式会社に引継雇用
1940年(昭和15年)1月 義一一家が宮崎県高岡町の父母の家に来訪


 このころ、父の兄である義一とその妻、3人の娘は倉敷市内で暮らしていた。1940年(昭和15年)の正月に、義一一家は、私の父母が住む宮崎県高岡町の山奥まで、はるばる遊びに来た。この年は「皇紀2600年」であり、宮崎県は「天孫光臨」「神武天皇」の関係地ということになっていたから、様々なイベントがあったためである。私の父母と義一一家は、各地を見物してまわった。同年春、義一一家は岡山市に転居した。
 また、このころ、義一の三女を私の父母が養子とする話があったが、三女がなじめず、話は頓挫した。義一一家の来訪と養子話は、第二次世界大戦後の私の父母の人生に、有意味な前提となった。もちろん、このときは予想だにされていない。

1941年(昭和16年)9月 電気化学工業株式会社を退職
1941年(昭和16年)10月 日本発送電株式会社に技師補として採用


 M氏は東京本社に転勤となり、K氏が大淀川発電所の所長に昇格した。日本発送電の発足を機に、職員配置が見直され、有能なM氏を九州山奥の発電所長にしておくのはもったいない、との声が本社であがったためと、父は理解していた。

1941年(昭和16年)12月 「太平洋戦争」開戦

1943年(昭和18年)2月 大淀川第1発電所主任に昇任

1943年(昭和18年)12月 父の母、勢以の逝去
1944年(昭和19年)2月 父の父、慶太郎の逝去


 父の父母は、兄の義一一家とともに、岡山市内で暮らしていた。

1944年(昭和19年)10月 大淀川第2発電所主任に昇任

 送電ケーブルがショートして、送電ができない事故が起こった。父よりかなり年上の「鍛冶職」の職員がいて、旋盤を使って、一生懸命に修理をしてくれた。他の職員は総出で対処し、その家族は「炊き出し」などで応援した。応急修理でなんとか送電できるようになった。のちに、九州支店(福岡)から調査にきた技師のS氏(戦後、九州電力の副社長になった?)が父の社宅に泊まったとき、夕食時に、独力での修理をほめてくれた。父は名誉に思った。
 戦時中、軍の召集令状が2度父にきた。九州支店(福岡市)に報告すると、手を打つのでほっておけばよい、との返事であった。たしかに、すぐに召集解除となった。父は、体格劣等の「第二国民兵」合格であったし、すでに年長者でもあった。そのうえ、発電所という重要産業の従事者であったため、と思われる。しかし、若い職員は次々と軍に召集された。

1945年(昭和20年)4月 宮崎県産業報国会理事の委嘱

1945年(昭和20年)6月 兄である義一一家が岡山空襲で罹災


 義一とその妻、3人の娘は岡山市内で暮らしていた。29日の未明、岡山市は空襲を受けた。岡山市より大きい広島市が空襲を受けていなかったので、岡山市の空襲は先のことと考えて、岡山市民には「油断」があったという。
 義一の家族5人は防空壕に避難した。焼夷弾攻撃のため、市内は火の海となった。火災のあまりの熱さに、次女である敏子は1人だけ防空壕を脱出して、近くの西川(岡山市内中心部を北から南に流れる小さな川、現在は、その周辺が美しい緑地公園に整備されている)の水につかり、「新橋」の下で朝を迎え、火傷だけで助かった。義一とその妻、長女と三女の4人は、防空壕のなかで死亡した。

 私の父は、空襲の直前、兄の義一に手紙を書き、郵便貯金などの自分の「財産目録」を送った。米軍が宮崎に上陸するとの噂があり、自分が死んだ後のことを考えてであった。ところが、ラジオ放送で岡山市の空襲を知った。やがて、兄へ出した手紙が返送されてきた。兄一家のことを心配していたが、情報は得られなかった。
 義一の妻の実家の親戚から手紙が届き、義一一家が空襲で罹災し、次女である敏子だけが助かって倉敷の病院に入院中のこと、すぐ岡山にきてほしいこと、を記していた。すでに7月中旬になっていたという。私の父と母は、いそいで岡山に向かおうとした。発電所社宅のある山間部から都城駅まで出たとき、父と母、とくに母が、猛烈な食中毒になった。梅雨の時期で、出発のための急ごしらえの弁当が腐敗していたと思われる。駅前近く(?)の見知らぬ人が親切に介抱してくれ、1泊させてくれたこと、お礼に行かなければと思いつつどこの誰ともわからず月日がたってしまったことを、父も母も私によく話していた。
 大牟田、関門トンネル、広島、呉(呉線まわりであった)などで空襲を受け、父と母がのった列車は長時間停車した。3ないし4日かかって、倉敷の病院にようやくたどり着き、父と母は、敏子を見舞った。敏子は、自分の父母も姉妹も見舞いに来ず、また、父母や姉妹のことを誰も口にしなかったので、一家の全滅にうすうす気づいていたものの、私の父と母が、それをはじめて敏子に伝えた。
 兄一家の遺骨を倉敷紡績から引き継ぎ、津山に納骨に行った。その帰途の津山線でも、空襲にあった。

1945年(昭和20年)8月 「太平洋戦争」終結

 父は、日本の敗戦を予感して、それを母によく述べ、母は公言しないようにたしなめていたという。予感した理由は、米軍が発電所の所在を熟知するはず(米軍の戦闘機が、面白半分からか、発電所をたまに機銃掃射していた)なのに、本格的に攻撃する気配がなかったことである。父によれば、米軍が勝利後に、発電所を使用するつもりに違いない、ということであった。
 父の推測は、あながち見当はずれではなかったと私は思う。戦争が長引けば、宮崎県の日南海岸に米軍の上陸作戦が予定されていた。その地帯への電力供給は父の発電所が担っていたから、もし米軍の上陸があれば、父の発電所は重要な戦略施設となるからである。もっとも、米軍が上陸すると、父は発電所「死守」を命じられた可能性が高い。そうなれば、私は生まれず、存在しないことになる。

 8月15日の数日前から、夜も昼もなく、宮崎市内から、人々が続々と荷馬車で発電所のある山間部にやってきた。父が理由を聞くと、米軍の敵前上陸が今にもあるとの噂があり、それを恐れて人々が逃げてきたのであった。
 8月15日の朝は、父は高岡町の警察署まで山間部から下ってきていた。発電機の予備部品を疎開するために、荷馬車の調達を依頼するためであった。昼に重大放送があることを知り、用件が終わっても、放送を聞くために警察署にとどまった。放送があった。しかし、すぐには意味がよくわからなかった。終戦の意味だという意見と、さらに励め、の意味だとの2つの意見が警察署にあった。天皇の声は聞いたことがなく、難しい言葉の上に、ラジオの音質も悪かったからである。しかし、やがて敗戦の放送らしい、と認識されるようになった。警察署は、緊張感のない「タラーン」とした感じになった。