遠藤秀雄・番外編


高熟練の電気設備保全労働者・専門工

 年譜に明らかなように、父は、職業上の生涯のほぼ全部を、高熟練の電気設備保全労働者・専門工としてすごしました。やはり年譜に明らかなように、その仕事能力の養成はOff-JTである学校教育に大きな比重が置かれていました。ところで私は、1980年代中葉または後半に、日本企業ではOJTの比重が大きいとの通説を念頭に、父につぎのように尋ねたことがあります。「現場で仕事を覚えるのは、先輩に教わったり、時には自分でやって失敗したりして、仕事をしながら覚えるのか。」父の答えは即座でした。「違う。しくじると(この言葉は、私が通常つかう言葉でないため、私の耳に残っています)、自分が死ぬ。」そして、電気学をきちんと学んでなければ修理ができないことを、父は私に話しました。

 父の死後、1992年末に、野村正實氏が小池和男「知的熟練論」を批判する論文を発表しました。批判の重要ポイントは、「知的熟練」概念には設備保全労働者・専門工の存在が欠けている、すなわち小池和男は、彼らの存在を概念上はスキップして直接生産労働者の熟練を技術者の知識などに結びつけ、直接生産労働者の熟練は技術者の知識などに近いと理解したが、それは誤りだ、とのポイントでした。私は、この批判論文をはじめて読んだとき、このポイントの指摘に納得しました。納得した理由は、野村氏の批判が理論的に明快であったこともありますが、その後、年を経るにしたがってしだいに感じた理由は、私の父から折々に聞いていた話によって、電気設備保全労働者・専門工の存在とか、その仕事能力や仕事能力の養成についてのイメージが私にある程度できていたことでした。そのイメージをもとにすると、野村氏の批判は納得的だったのです。

 もちろん、父は発電・変電など重電関係における電気設備保全労働者・専門工であって、量産品製造工場におけるそれではありません。また、かなりの高学歴(と私は思う)にもかかわらず保全労働者・専門工で職業生活を終えた理由は、1つには、学歴が夜学校であった(いわゆる「学歴差別」で、これも日本労働史の一側面です)ことが影響しているように思います。したがって、上記のイメージが適切かどうかは疑問があり、かなりの検証が必要でしょう。にもかかわず、保全労働者・専門工とは何かのイメージを父からあらかじめ得ていたところに野村氏による「知的熟練論」批判に接することができたのは、私は労働研究者として幸運だったと思います。この点でも、父は私に大きなものを残してくれたのです。

イラク戦争の犠牲者

 年譜(第二次世界大戦敗戦まで)の最後部分を作成したのは、イラク戦争が始められた後でした。バクダッド市民に対する空襲のニュースがくりかえし流れました。そのときに、「義一一家5人の空襲罹災、次女である敏子一人の奇跡的生存」を記述することは、胸のつまる思いでした。アメリカ合衆国政府による一方的な理由づけの空襲で、多くの「義一一家」「敏子」がバクダッド市民に生まれたはずです。許せないことです。(2003年4月3日)