イギリス帝国海外領土の軍服




 ロンドン北部郊外の古写真屋兼古本屋で、左のパンフレット(本文24ページ、その他に表紙がつく)を偶然に入手しました。5ポンドでした。

 左の上は、その表紙です。表紙のタイトルでわかるとおり、イギリス帝国の海外領土における軍服のカラー図集です。下部の記述から、John Playerというタバコの会社が発行したものであることがわかり、3ペンスの価格が記入されています。発行日は記入がありませんが、おそらく1930年代後半と思います。左の下は、その12ページですが、その文章に1935年のことの記述があるので、そう判断しました。




 左の下は、このパンフレットの12ページで、インド西部の部隊の軍服です。

 左の軍服は、ヒマラヤの麓のある地域の、あるカーストからのみ募兵された連隊の軍服です。彼ら全員が、インドに侵入したアーリア人の直系子孫ということになっていて、全員が、高いカーストに属すると説明されています。騎兵と歩兵です。

 中の軍服は、グルカ兵のライフル連隊の軍服です。グルカ連隊は10も編成されていて、イギリス帝国の強力な兵力として、そのうちのいくつかは1815年のネパール戦争(私はよく知りません)から、活躍しているそうです。この連隊は、もっとも新しく、1890年の編成とのことです。しかし、第一次世界大戦では、ガリポリ、エジプト、イラクに派遣され、戦闘に参加したそうです。



 ガリポリというのは、たまたま、テレビでドキュメンタリー番組があったので知りました。私は知りませんでしたが、イギリスにとっては、非常に有名なところです。
 第一次世界大戦中に、イギリス軍がトルコのイスタンブール近くの海岸に敵前上陸作戦をおこなったが、大敗北を喫して、戦死者多数などの大損害を出したあげく、結局、撤退したところです。テレビの解説にいうには、トルコを甘く見すぎていた、とのことでした。それまでのイギリス軍の敵前上陸作戦は、敵に大きな軍事力のないところのみだったそうですが、トルコも同様に考え、上陸すればトルコはすぐ降伏する、とさえ考えていたそうです。ところが、そうではなく、それどころか、トルコ軍の強力な反撃があり、イギリス軍は大損害のあげくに海岸線に釘付けになりました。イギリス軍は、再準備をととのえて、裏側の別の海岸に上陸しましたが、結局これも失敗しました。
 イギリスに有名は理由は、作戦が大敗北だったこともありますが、この作戦の発案と指導は、あのチャーチルが深く関与していたからでした。敗北のため、チャーチルは事実上失脚しました。ところが、第二次世界大戦のときには首相として復活しており、フランスのノルマンディーへの敵前上陸作戦の発案と指導にかかわり、これを成功させました。テレビの解説がいうには、ガリポリの失敗をチャーチルは教訓とした、とのことでした。

 右の軍服は、山岳砲兵大隊の軍服です。大砲を引かせるのは、ラバだそうです。道が少なくて急で、機械化できなく、馬で引くのも困難で、ラバとのことです。将校は全員がインド人とのことです。他の箇所の記述でも強調されていますが、このころ、インドにおけるイギリス軍の将校は、それまでのイギリス人からインド人へ、急速に変えられつつあったようです。